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石井ふく子 ラストボンド INTERVIEW

“私は同じことしかできないから、古いと思われても“家族”のドラマを作り続けます。”

日本の家族を描いたドラマを50年以上作り続けてきたプロデューサー・石井ふく子さん。
1990年10月から20年以上続いた大ヒットドラマ『渡る世間は鬼ばかり』は家族ドラマの新しい形を生み出し、さらにそれをスタンダードにまで昇華させた。そんな石井さんはどんな経緯でドラマ作りに携わるようになったのか。

石井ふく子(以下、石井さん) インタビューなんて受けるほど、私は大したことはしていませんよ(笑)。プロデューサーになったきっかけですが、最初に私が働いたのは父の紹介で入った「新東映」という映画会社でした。私たちのころは女性の就職はあまりなかったので、その会社では女優として入ったんです。ただ、女優は自分には向いていなかったので2年目に辞めました。その後、建築会社「日本電建」に庶務として入りましたが、社長が私の経歴を見て、宣伝部に移動させたんです。たった3人の小さな部署でしたが、そこでラジオドラマを作っていました。そのラジオドラマを聞いたTBSの編成局長が私をテレビの世界に誘ってくれたんですが、最初はイヤだったんですよ。当時はラジオが宣伝の花形で、全然普及していなかったテレビは左遷みたいなものでしたから。それで一度は断ったんです。ですが、また熱心に誘っていただけたので属託として入社した後に正社員になりました。そのときからずっと家族ドラマを作っていますね。私はそれしかできないんですよ(笑)。だから、当時から今も変わらず丁寧に焦らず、怒らず、諦めずに家族ドラマを作っています。

——そんな石井ふく子さんも、トレンディドラマ最盛期にはドラマ作りを少し休もうと思われてたようだ。

石井 『渡る世間…』が放送された1990年は、世の中トレンディドラマだらけだったので、「私はトレンディドラマは作れませんから休ませてください」と局に話したんです。ところが局からの返答は「そんなこと言わずに、橋田(壽賀子)さんと旅行でも行って考えてください」でした。そこで、橋田さんが行きたかったバンコクでドラマの構想を練ったんです。実は『渡る世間…』が生まれたのはタイなんですよ(笑)。それから今まで『渡る世間…』で出会った方たちとは家族同然のお付き合いをしています。

——家族ドラマだけを作り続ける石井さんは、今どんな想いを視聴者に伝えたいと考えているのだろうか。

石井 どんな人でも家族です。だから私はサスペンスでもアクションでもない、日本の普通の家族をドラマにしたいんです。古いと思われても構わないんです。それを丁寧に作ることが私のしたいことですから。最近のテレビは同じような作品が多いのですが、私は人まねをしてほしくありません。迷いの多いこの時代に人のまねをしていると自分自身が育ちませんので。自分の目的を通すためには、まず自分が育つ必要があると私は考えます。

——最後に仕事に対する考え方を伺ってみた。

石井 私は仕事は終わった瞬間に始まると思います。仕事でつながった縁をきちんとひっぱらないともったいない。「仕事」という文章に「、」はあっても「。」はありません。仕事をして縁をつなげる、それが仕事する本来の目的じゃないでしょうか。私だって常にそれを気にして仕事しているわけではありませんけどね(笑)。 (BOND FUKUOKA 11掲載分)

[ 石井 ふく子・いしい ふくこ ]
1926年、東京下谷に生まれ。父は新派の名優、(故)伊志井寛。3歳の時から日舞を習っていた彼女は、父の紹介で受けた映画会社・新東映の面接に受かり、一度は女優として活躍。その2年後、女優を辞め、1950年日本電建の宣伝部入社。そのとき手がけていたラジオドラマがきっかけとなり、TBSにプロデューサーとして入社した。TBS時代は『東芝日曜劇場』を手がけ、「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」など、ホームドラマのヒット作を量産する。制作本数は約3,000本を超え、ギネスブックにも記載されている。代表作「渡る世間は鬼ばかり」もそのうちの一つ。また、1968年からドラマづくりのかたわら、舞台演出も手がける。舞台では「唐人お吉」「妻たちの鹿鳴館」「夢千代日記」他、多数の作品を演出。 プロデューサーとして数々の賞を受賞し、1989年には紫綬褒章を受ける。

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