九州・沖縄発 一流のオトナを諦めないあなたに贈るフリーマガジン変革をあきらめないオトナたちへ BOND

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さいとう・たかを インタビュー INTERVIEW

“赤い信号でボーッと止まるのではなく、止まることの意味を考えてほしい。”

46年間、休載することなく描き続けられる劇画界の金字塔『ゴルゴ13』。
その生みの親、さいとう・たかを氏とはいったいどんな人なのかをBOND編集長・小栁が幼少期から探ってみた。
そこで見えたのは物事の本質を的確に捉え、未来を見据える男の姿だった。

——僕は以前からさいとう・たかを先生の作品のファンなので、今日はかなり緊張しています。

さいとう・たかを(以下、さいとう) こんなおじいちゃんに緊張なんかしなくていいよ(笑)。

——まず、幼少期のころから教えてください。なんでも相当悪かったと。

さいとう メチャクチャ悪かったですね。それも理屈っぽい悪で。中学校二年のときかな? 教師を謝らせたこともありましたね。当時、隣のクラスに勉強が分からないという理由で殴られた子がいまして、私はその教師に「素行が悪くて殴るのは分かるが、勉強が分からないから殴るとは何事だ!」と怒ったんです。大人になってから当時殴られた子が、自分の子どもに「タカオ」と名付けたという報告をもらいました。

——答案用紙を白紙で提出されたというエピソードも伺いました。

さいとう 実はそのころ、(答案用紙を)ずっと白紙で提出していたんですよ。試験なんてものは教育でもなんでもないと思っていましたから。1+1は本来2にはならない、実際は1と1です。1+1=2と考えるのは人間の便宜法であって、そのことを教えるのが本当の教育だと思います。そんな訳で答案用紙を白紙で提出していたら、当時担任だった“東郷”先生が私に「これを白紙で出すのは君の意思で出しているのだから仕方ないかもしれない。ただ、これは君の責任の下で出すんだから名前を書きなさい」と言われたんです。それからも東郷先生には社会の決まり事をいろいろと教わりました。デューク・東郷(ゴルゴ13)の“東郷”はそんな先生の名前をいただいたんです。

——先生は19歳の時に「空気男爵」でデビューされたわけですが、当時は貸本屋の単行本を描いていたんですね。

さいとう というのも、私は雑誌が嫌いだったんです。最初に会った編集者が良くなくて、私が貸本のカラー原稿を先に進めさせてほしいと話すと雑誌の担当が「雑誌を遅らせて貸本を先にするんですか?」と言って来たんです。それが頭にきて雑誌嫌いになり、しばらく雑誌で描きませんでした。そうこうしているうちに私の一番弟子で『巨人の星』を描いていた川崎のぼるが先に雑誌で描くようになったんですよ。その後、私も雑誌で描くようになりましたが、読者から「(さいとう)先生は川崎先生の弟子ですか? 絵が似てますね」と言われましたね(笑)。当時は雑誌に掲載している漫画家の方が上だと一般的にも認識されていましたよ。

——雑誌に掲載するようになってから漫画が大人も楽しめるものだと考えるようになったのでしょうか。

さいとう いえいえ、最初から(漫画は)それこそ大衆小説と肩を並べるものと思っていました。私が漫画に興味を持ったのは、「漫画少年」という本で手塚(治虫)先生の『新宝島』に出会ってから。その作品を読んで紙で映画みたいなものを作ることができるんだと思ったんです。手塚先生の『新宝島』では映画的な手法がたくさん取り入れられていて、当時映画マニアだった私にはとても刺激的でした。私と同世代の漫画家は笑いや風刺といったいわゆる「漫画」を描いていたんですが、私ははじめから「ドラマ」を描きました。ただ、そのころドラマ漫画のことを手塚先生は『ストーリー漫画』と呼ばれていたんですが、その呼び方がしっくりこなくて……映画を活動写真と呼ぶみたいな違和感を感じていたんです。それで仲間と集まってドラマ主体の漫画を『劇画』と呼ぶようにしたんです。

——今ある『劇画』という言葉は先生方が作られたんですか!

さいとう 私と仲間7人で『劇画』という名称を作りました。仲間の一人、辰巳ヨシヒロがドラマ仕立ての漫画を『劇画』と呼んでいて私以外の人は賛成していました。私が反対した理由は、当時、紙芝居をその世界の人たちは『画劇(がげき)』と呼んでいたからなんです。ただそのころちょうどテレビが世に出だして、そうすれば紙芝居はダメになるなと思い、それなら良いかということで『劇画』と呼ぶようになりました。ところが『劇画』を描いている連中がどんどんいなくなり、当時はドラマを主体にした漫画を『劇画』と呼んでいたのですが、今は私みたいな画風の漫画を『劇画』と呼ぶようになってしまって……変な感じで言葉が残ってしまったんです。

——先生の代表作『ゴルゴ13』がスタートしたのは僕が生まれる一年前の1968年ですが、未だ休載したことがないとか(小栁は1969年4月生まれ)。

さいとう これは辞められなくなったんですよ。漫画を描いていて人気が出ると休載するというのがステータスと思う人が出始めた時期があったんです。でも私はプロとして、最低限「締切は守る」「原稿を落とさない」は遵守すべきだと吠えたんです。そんなわけですから勝手に休載できなくなってしまいました(笑)。

——デューク・東郷という存在に読者はそれぞれに想いがありますが、先生にとってはどんな存在でしょうか。

さいとう よく質問されることなんですが、その度に私は「監督とよく言うことを聞いてくれる役者の関係だ」と答えます。やっぱりこれは映画作りの感覚なんでしょうね。この役者はよく言うことを聞いてくれます、絶対に逆らいませんからね(笑)。描き手と主人公の関係をもっと端的に言えば、(主人公は)自分のどこかです。自分を無視して主人公を描くことはできないんですよ。デューク・東郷の、仕事で人を殺しても足下のアリは踏み殺さない……みたいな「目的のない殺しをわざわざしない」という善悪の解釈も、完全に私の考え方ですからね。

——では最後に今の30、40代に先生が伝えたいことをご教示いただけますでしょうか。

さいとう 一番お伝えしたいのは、まず、今まで自分が学んだことや子どもの頃大人に言われていたことを一度バラバラにしてほしい。そして自分で考えるようにしてください。赤い信号を見てボーッと止まるのではなく、これは約束事でその約束事をみんなで守るから社会がうまくいくんだという思考を常に巡らせてほしいのです。自分で考えるということ、それをもう一度してください。(BOND FUKUOKA 11 / BOND OKINAWA 03 掲載分)

[ さいとう・たかを ]
1936年生れ。大阪出身。大阪府下福泉中学卒業後、家業の理髪店を手伝いながら、映画にはまる。中でも当時上映された「キングコング」「宇宙戦争」「無法松の一生」などに感動した。挿絵画家からストーリー漫画家に志望が変更したのは映画の影響と、進駐軍が持ち込んだアメリカ漫画誌、いわゆる”10セント・コミックス”を観た事によるとのこと。1955年「空気男爵」で漫画界デビューし、当時の貸本屋ブームの中で人気を築く。その後、辰巳ヨシヒロ、松本正彦ら7人の作家と「劇画工房」を結成し、ハイティーン層の読者を狙う。1960年、「劇画工房」分裂とともに法人組織「さいとう・プロダクション」を設立。1967年には東京・中野に移転し、制作・出版の規模を拡大させた。1967年より『無用ノ介』が「少年マガジン」に連載され、1969年にはテレビ放映が決定。1972年に「ビックコミック」で『ゴルゴ13』の連載が開始。『ゴルゴ13』はその後、高倉健や千葉真一を主演にした映画も製作され、現在も連載中。2014年11月時点で単行本(リイド社刊)は174巻を数える。

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