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設楽 洋 インタビュー INTERVIEW

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ピンチはチャンス……というほど楽観的にはなれない。
でも、ピンチはクイズと思えるぐらいのプラス思考で。

 セレクトショップ『BEAMS』といえば、ファッションやカルチャーを牽引する唯一無二の存在。しかし、その『BEAMS』が来年の創業40周年を迎えるということは意外と知られていない。それほどまでに常に新しく、どの時代にもフィットした情報を発信しているのだ。そんな『BEAMS』の生みの親であり、現在もそのチームの長として時代の最先端を走る株式会社ビームス・代表取締役の設楽洋氏に、『BEAMS』の設立からどのように今の形なったのか、そしてその成長の過程で見出した成功の秘訣とはどんなことなのかを伺った。

たった7畳の小さな空間に米国の生活を再現。

——まずは『BEAMS』誕生の経緯を詳しくお話しください。

設楽洋氏(以降、設楽) 『BEAMS』を始めたのが1976年で、僕が25歳の時。それで、僕が生まれたのが1951年なんですが、ミッドセンチュリーのど真ん中なんです。団塊の世代より少し遅れた戦後生まれなんですが、『BEAMS』を始める25歳までに時代が目まぐるしく変化するそんな時代だったんです。物心ついた60年代には今でいうサブカル系(当時はアングラ系と呼ばれていた)も体感していましたし、その後70年代に訪れたサーファーカルチャーなどの昼間の文化の洗礼を受けた世代でもあります。当時は「男の子はアメリカに、女の子はパリに憧れる」とよくいわれましたが、私がまさしくそれで、初めてエレキ(ギター)を持って、初めてジーパンを履いて、初めて長髪になった世代だったんです。そんな時代を経て今から39年前、原宿の元八百屋さんだったビルの一角に6.5坪の店、とはいえ3坪はストックスペースにしたので残り3.5坪(7畳)にアメリカの学生の部屋をイメージした店を開きました。当時はお金もなかったので内装費トータルで50万、難しいところ以外は自分たちで手を加えて。その店の名前が『アメリカンライフショップ ビームス』。当時は洋服店を始めるというよりも、アメリカの生活を販売する店というイメージです。それから2年間、「アメリカンライフショップ」を店名の頭に付けていました。7畳の店の中央にパインのテーブルを置いて、いかにもアメリカの学生が持っていそうなロウソク立てやお香、スケボーのホイール、トムとジェリーに出てくるネズミ取りといった雑貨といっしょに、スニーカーやジーンズ、スウェットなども置いて(UCLAの)学生の部屋を再現したんです。90年代初頭から全ての業種がこれからはライフスタイル提案だと言うようになり、今ではそれが当たり前ですが、約40年前から「これからはライフスタイルだ」と思ってこういう店を始めました。

日本の若者の風俗・文化を変えてやろうと思っていた。

——どんな実生活からライフスタイルを売る店を作ろうと思ったのでしょうか。

設楽 大学生の頃はまだ学生運動があり、学校に行きたくても行けないことが多々ありました。なので雨が降ったら雀荘、晴れたら湘南に行くという生活を過ごしていたんですが、当時湘南の海で遊んでいるうちに横須賀のベースキャンプの人と友だちになり、ベースキャンプで年に何度か開催されるバザーに入れてもらったんです。小さいころからアメリカに憧れていますが、当時はまだ行ったことはありません。でもテレビで見たホームドラマのアメリカがそこにあったんです。

——ベースキャンプの中に?

設楽 はい。芝生の上に米軍将校の白い家が建っていて、バスケットコートでは子供たちがバスケットをしている。そんな子供たちを見ていると見たこともないかっこいい「バッシュ」を履いているんです。で、周りには白いジーパンを履いている人がいたりして。そういうのが欲しいんですが売っている店はありませんし、たまにバザーに行ってもサイズが合わない。そういう欲しいけど手に入らない、だから自分で店を作っちゃおうというのが原点ですね。当時のインポートものは、百貨店で“舶来物”という扱いでハイブランドがあるか、アメ横・横須賀の米軍放出品、いわゆる“軍モノ”と呼ばれるものしかなく、たまに古着でスニーカーやスウェットも出ますが米軍放出品なのでサイズが大きいんです。だからアメリカの学生の生活を売りたい、そして7畳の店ながら気持ちだけは大きく、日本の若者の風俗・文化を変えてやるぞという想いでスタートさせました。

夜の文化から昼の文化に移り変わった70年代中盤。

——では、創業当時の若者文化とはどんなものだったのでしょうか。

設楽 それまでの若者文化は夜生まれていました。つまり、東京だと新宿や六本木、赤坂といったディスコがあった場所。あるいはオシャレな人が集まるのが「レストランキャンティ(六本木にある1960年創業のカフェレストラン)」や「風月堂(1946年から73年まで営業していた名曲喫茶の先駆け)」で、そういう場所にミュージシャンやコピーライター、デザイナーたちが出入りしていました。その後、学生運動が終焉を迎えた70年代中盤にそれまで若者たちの主流だったジャズやソウルといった重めの音楽が、突然、カリフォルニアサウンドに変わり、流行りものもスケボーやサーフィンといった昼の文化が到来したんです。そこに『BEAMS』がオープンし、『POPEYE(平凡出版、現マガジンハウス)』が創刊しました。当時、ほとんど店がなかった原宿に『BEAMS』をオープンさせたのは、夜にたむろしていた人が原宿の伝説的なアパート「原宿セントラルアパート」の1階にあった喫茶店『レオン』に集まるようになったのを知り、原宿に“風”が吹いているなと感じたから。

——当時の原宿に集まった人たちは、どんな人たちでしょうか。

設楽 僕らと同じような若者が既成のナショナルブランドに飽き足らなくなり、そんな連中が原宿セントラルアパートでインディーズのブランドを立ち上げ、後の“DC(ブランド)”になるわけです。一方、僕らのようなデザイナーではない人間は、自分たちの感性に合ったものをそろえて好きな人だけ集まれ! という、後にセレクトショップと呼ばれるインポート型の品揃え店をオープンさせました。新たな文化の風が吹いた70年代後半は、僕と同じくアメリカの洗礼を受けた若い連中がブランドを立ち上げたり、ショップを始めたりした時期ですね。最初(BEAMSに)興味を示してくれたのはプロの方でした。『ピンクハウス』の金子功さんや『平凡出版』の北村勝彦さんといった方々が「原宿に小さいけど面白い店ができたぞ!」と来てくれたころから徐々に広まった感じです。また、情報収集も彼らからしていました。「今、“ニケ”っていう運動靴が流行ってるみたいだよ」と聞いたら、じゃあ現地で買い付けだ! みたいな。

——ニケ? あ、『NIKE』ですね。

設楽 そうそう、後にそれが“ナイキ”だとわかるんですよ(笑)。今は笑い話ですが当時はそれぐらいモノも情報もありませんでした。そういう時代ですから、僕たちはモノを売るというだけでなく、情報を見せるというのも当時の役割りだったように思います。

——そういう意味では、今も僕らユーザーは情報を得ようとショップに行きます。

設楽 今はモノと情報があふれすぎているから、逆に何が正しいのかがわからなくなっている。当時の状況とは真逆ですが情報に飢えていることは同じで、今のセレクトショップの役目はモノと情報を整理してあげることが正しいのではと考えています。

[ したら・よう ]

1951年東京都生まれ。1975年に慶應義塾大学経済学部卒業後、株式会社電通入社。プロモーションディレクター・イベントプロデューサーとして数々のヒットを飛ばす。1976年、同社勤務の傍ら、「ビームス」設立に参加。1983年に電通退社後、自らを「ビームス」のプロデューサーと位置付け、その独自のコンセプト作りによりファッションだけでなく、暮らしに関わるあらゆるジャンルのムーブメント仕掛人として一目を置かれる存在に。また、セレクトショップコラボレーションの先駆者でもあり、個性の強いビームス軍団の舵取り役として現役活動中。1997年にニューヨークADC賞金賞、2004年にデザイン・エクセレント・カンパニー賞、2012年にJR東日本交通広告グランプリ、Yahoo! JAPAN I.C.A.ブロンズ賞など多くの賞にも輝いている。

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